#16 Colin Stevens
HAIGHT24AWも立ち上げということでFEATUREも久々再開。
今回の記事は、HAIGHTボスの地元である仙台のTattooカルチャーにも多大な影響を与えた人物であり、今季のプロダクトのアートワークを依頼したこの方。
現在、サンフランシスコの有名Tattooスタジオ、「BODY MANIPULATIONS」所属の彫り師 ”Colin Stevens” 氏について。
Tattooカルチャーに詳しい人には有名な人物かと思いますが、シカゴ→仙台→シカゴ→ハワイ→仙台→サクラメント→サンフランシスコ、と、80年代以降のTattooカルチャーの渦と波に導かれる様に渡り歩いた、そのルーツと歴史を改めて知るべくインタビューさせてもらいました。
全ては偶然なのか必然だったのか、もしくはTattooに魅せられた純粋な気持ちが運を引き寄せたのか。
刺青がカルチャーとして成熟していく過程にいた人の人生は凄く興味深いものでした。
サンフランシスコはもとより、アメリカでも歴史のあるTattoo兼ボディピアッシングのスタジオ、BODY MANIPULATIONS所属の彫り師として腕を振るっています。
出身はシカゴで現在57歳。
10代の頃にTattooに興味を持った氏の人生には嬉しいことに日本も深く関わっています。
両親ともにシカゴ生まれで、梵字の研究をしていた父親の仕事の関係で5歳の時に仙台へ。それが後の人生に大きく関わってくる、日本とのファーストコンタクト。
しかし、父親が梵字の研究者というのも中々珍しいですね。
母親も感性豊かな方だった様で、楽器も出来て絵も上手だったそうです。
その影響からか、自身も少年時代から絵を描くのが好きで、壊れた電子機器の修理なんかも楽しんでやっていたそう。
その後は高校卒業までを仙台で過ごす訳ですが、そんな中、刺青に興味を持つきっかけがあったそうで。
仙台でハーレー好きの先輩がやっている古着屋があり、そこに来る人達が和彫りではないモダンな雰囲気の刺青を入れていて...そこから興味を惹かれていきます。
当時は3年に一度ビザの更新で帰国しなければならないルールがあり、その時に帰るのがおばあちゃんの家があるサウスシカゴ。
そのエリアは当時荒れ放題で、刺青だらけのバイカーも多く、怖いながらも更に興味津々。
仙台で高校卒業後、特に大学へも行く気はなかった自分に父親から、「一度シカゴで過ごして自分の人生どうするか考えてみろ」と言われ、サウスシカゴ生活がスタート。それが80年代のこと。
80年代のアメリカはどこも危険なエリアだらけだったと思いますが、中でもサウスシカゴは有数の極悪エリア。
更にその頃はレーガン時代の負の功績としても語られるクラック全盛時代で、通りのそこら中に注射器が散乱しているような感じ。
銃声が聞こえることも多く殺人事件なんてしょっちゅう、バイカーたちが喧嘩をしているシーンなんかも毎晩の様に目撃。
中には鎖を振り回すバイカーなんかもいた様で、さながら実写版北斗の拳の様な世界を想像してしまいました。カオスすぎ。
18歳だし遊びたいけど、19時過ぎたら街を歩けないし、おばあちゃん家のブラインドからひっそりとその光景を見ていました。
ただその頃、シカゴに行ったら最初の刺青を彫ろうと密かに決めていてたのだが、シカゴでは21歳以上でないと刺青が彫れない決まりがあることを知る。一旦シカゴ初彫り作戦は延期。
しかし刺青への欲求は収まらず、調べに調べ、シカゴのあるイリノイ州の隣、ウィスコンシン州は18歳から刺青OKなのを知り、更に州境あたりにある小さな町にTattooスタジオがあるという情報もゲット。
じゃあ次はどうやってそこへ行こうか…ということで、目的は言わず、とにかくその町に行ってみたいんだとおばあちゃんに頼んだところ、おばあちゃん、叔父さん、家族や孫まで、なぜか家族親戚総出で行くことに。
そもそも目的知らないし、お出かけ気分ならそうなりますよね 笑
無事目的の町に到着し、みんなでランチをするタイミングを見てトイレへ。
トイレの中で電話帳を開き、その街のTattooスタジオを調べたら2軒だけ出てきたそう。そしてランチ中にもかかわらず1人抜け出し、2軒の内の近い店に急いで行って初彫り成功。
しかし、なかなかやばい発想の作戦ですね 笑
抜け出しからの初のTattooスタジオ、初の彫り。とにかくドキドキだったそうです。
(Colin氏のスタジオ)
そんな具合で数ヶ月サウスシカゴで過ごした氏は、その後一旦仙台に帰国。
色々な仕事をする内、最終的な進路をナイフ職人、ジュエリー関係、刺青、の3択に絞りますが、やはり当然のごとく彫り師の道を志すことになります。この時点ではまだ未経験。
ただ当時の日本は和彫りばかりで、自分がやりたい”洋もの”とは違う。
それならTattooスタジオが沢山あったシカゴにまた行こうと決意。相変わらずそこら中に落ちてる拳銃の玉を横目に、シカゴのスタジオを片っ端から回って雇ってくれと頼みました。
その頃は彫り師を目指す若者が増え始め、スタジオも若いスタッフを雇い始めた時代。
いわば第一次刺青ブームというか、ニューウェーブが起き始めていた頃で、自分が刺青をやろうと決めたタイミングも丁度そのムーブメントと同じタイミング。それが80年代の後半で、例えば今や有名な彫り師の”Guy Aitchison”なんかも、当時はまだ雇われ3ヶ月目の新人としてシカゴのスタジオで修行していた時代。
でも未経験でコネクションも無い若者がシカゴのスタジオに雇われるのは難しく、それで思い立ったのがハワイへの突撃。
なぜハワイだったかというと、当時日本の若者にも”洋もの”を彫りたい人は結構いたんだけど、日本にそのスタイルはまだ無いから、旅行でハワイ行くついでに現地で彫って帰るような人もいた。
それを聞いていたし、何より日本語が話せる自分なら刺青彫りながらお客の通訳も出来るんじゃないかなって。
当時アメリカ人で日本語ベラベラで、刺青やりたいなんて人はそうそういなかったと思いますし、そこ狙って行くのがまず凄いし、この判断が後の彫り師人生に大きな転機をもたらします。
ハワイではしばらくは観光客向けのリムジン運転手なんかもやりつつ、同僚に練習台になってもらう日々。
ただその頃、あの超有名彫り師の”Ed Hardy”がハワイにいた時期で、更にEd HardyがColin氏の父親が書いた梵字の本を刺青の参考にしていることも知っていたので、
これはチャンスとばかり、その本の著者の息子で刺青に興味があるとコンタクトを取ってみたそう。
(独特なスタイルで描かれるColin氏のアートワーク※現在のもの)
シカゴと仙台の行き来から突如ハワイに渡り、同じ時期にEd Hardyがハワイにいて、しかも父親の本を参考にしていたなんて奇跡としか言いようが無いですよね。
やはり何かを極める人の嗅覚や勘って凄いんだと思います。完全に導かれてます。
ゲストワークで何度も来日していたEd Hardyも日本語が話せるColin氏に興味を持ち、徐々に一緒に過ごす時間が増えていきました。
Ed Hardyの刺青の技術はもちろん、日本育ちの自分よりも日本のシーンに詳しい知識などに衝撃を受け、これは日本に帰って10年くらいは実績積まないとダメだ、と考える様になったそう。
そんな時、Ed Hardyから一度サンフランシスコも見に来いと言われ、伝説的スタジオ「TATTOO CITY」以前の自身のスタジオへ連れて行ってもらい、本格的に針の作り方などを教わったり、"Freddy Corbin"や"Daniel Higgs"ともその時に会うことになります。
その後、実績を積むために仙台に戻るのですが、その頃は周りに”洋もの”を彫りたい人が多い時で、仙台では自分しか”洋もの”やってなかったし、タイミングも丁度良かったんですよね。
そしてサンフランシスコで働くことを目標に仙台で5年間ほど彫り続ける日々。
その間もEd Hardyが東京へ来るたびに通訳として呼ばれて、時には日本の伝統刺青の巨匠 三代目”彫よし”を訪問したりなど、日本での間も関係を深めつつ、経験や技術を磨いていきました。
そうこうしている内に、後のサンフランシスコへの糸口となる話が舞い込む。
Ed Hardyの知り合いの"Eddy Deutsche"という彫り師がサクラメントで店を持っていて、バケーションに出ている間、その店で彫らせてもらえることに。
ちなみに当時のサクラメントはシャ⚪︎のメッカ。誘惑に駆られつつも約1ヶ月半ほど彫り、その後バケーションから戻るから終了と告げられます。
アメリカに渡り早々に行く所が無くなり、すでにサンフランシスコで「TATTOO CITY」を開いていたEd Hardyに”チャンスをくれ”と連絡。
それならゲストの彫り師として雇うから1週間やってみろ、と。
ちなみになぜ最初ゲストだったかというと、日本の刺青文化との違い、それとサクラメント経由で来たCalin氏が薬物まみれなんじゃないかと心配されていたからだそう 笑
そして2~3日した頃Ed Hardyが様子を見に来て、しっかり真面目に彫っている自分を見て正式に雇ってもらえることになります。
ここから念願だったTATTOO CITYの彫り師として働く訳ですが、個人的な問題も多く抱えていたこともあって店を辞めることに。
そして元TATTOO CITYという経歴も功を奏し、現在も所属する「BODY MANIPULATIONS」に辿り着くことになりました。
当時ミッション地区にあったBODY MANIPULATIONSですが、現在はベイエリア、3rdストリートの元工場を改装した店舗に変わっています。
【BODY MANIPULATIONS】
2455 3rd St, San Francisco, CA 94107 USA
https://bodym.com/
少年時代に刺青文化に興味を持ち、それがカルチャーとして出来上がっていく過程を当事者として長年見て、最終的に聖地サンフランシスコに辿り着いたColin氏。
現在のシーンについて聞いてみると、今のサンフランシスコは彫師も店も増え過ぎて、昔の仲間も他の州で彫っていたり、以前の自分達の様に師匠に付いて修行して彫師になるという、トラディショナルな道を通る若者も減ったそう。
それは刺青がビジネスとして成熟したということでもありますが、やはりどの業界もそうなんですね。日本も寿司の学校なるものが出来て、そこ卒業したら寿司職人、という時代ですから仕方ないことなのかも知れません。
そんな時代の移り変わりを体感してきたColin氏にこれからのことを聞いてみたら、意外な答えが。
実はCalin氏はこの数年大病を患い、何度も生死を彷徨う状況であったのですが、それを経て今感じていることは、和ものに戻ってきた、和彫りをやりたいんだよ、と。
(スタジオに貼られるフラッシュ)
過去を振り返ると、和ものでも自分の色を出し過ぎて、やり過ぎて脱線してしまうことも多くあったけど、今はもう少しシンプルにやりたいと思っていて、それはあとどれ位の時間が自分に残されているかも分からない、いつ死ぬかもわからない状況で、自分の心に正直にやっていきたいという心境の変化があったそうです。
人間誰しも時間は限られている中、その途中で生死を分ける辛い経験をし、自分の彫り師人生を改めて考えた時に、ルーツでありターニングポイントであった日本へ心が戻って来ている、というのは物凄く深いですね。
そして今回制作してもらったアートも、日本の友達を思い浮かべながら描いたそう。
描く目的、何の為に描くのかというのは重要だし、日本の友達を思って描くのは凄く楽しくて、もっともっとそういうことをやって行きたいとのこと。
(今回のために特別に描き下ろされたアートワーク)
自分は刺青は一度も入れたことが無いし、正直登場人物も分からない方ばかりでしたが、日本とアメリカ、古くから刺青が盛んな両国の間にCalin氏の様な人の存在があるのを知れ、なんとも数奇な人生だなぁと思うのと同時に、ずっと日本を想っているということが凄く嬉しく感じました。
Colin氏の今の和彫り、ぜひ間近で見てみたいですね。
HAIGHT x Colin Stevens、10月5日(土)に発売となりますので是非チェックしてください。
発売日:2024年10月5日(土) ※サイトでは10:00に公開になります
[Colin Stevens]
SMOKERS CLUB WORK JACKET
BLACK / OLIVE / GRAY
M / L / XL / XXL
¥33,000
[Colin Stevens]
CHECK FLANNEL SHIRT
NAVY / OLIVE
M / L / XL / XXL
¥18,700
[Colin Stevens]
3:15am HOODIE
ASH / BLACK / LIGHT BLUE
M / L / XL / XXL
¥17,600
[Colin Stevens]
SMOKERS CLUB LS Tee
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M / L / XL / XXL
¥11,000
[Colin Stevens]
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¥7,700